【目的の大きさに比例して、努力精進しなければならないのは因果の鉄則】
大変ご無沙汰してしまいました(^_^;)
色々なことが、人生に起きるもので。。
悲喜交々ありますが、、すべてを勝縁に、
生きる目的に向って前向きに進みたいと思います(^_^)
前回に続き、「トロイの遺跡発掘」の夢を果たした
シュリーマンについて紹介します。
彼は、目的を果たす手段として、20歳の時、商人になる決意をしました。
その日暮らしのどん底にいた青年が入社したアムステルダムの商社は、
給料は低かったものの、勉強する時間ができたことを喜びました。
外国語を身につけたほうが仕事に有利だと考え、収入の半分を学費に充てました。
ひどい貧乏暮らしで、暖房もない屋根裏部屋、
食事も切り詰めて、一心不乱に英語の勉強に打ち込んだのです。
彼は自伝に、こう書いています。
「みじめな境遇と、
努力すればそこから抜け出せるという
たしかな見通しほど
勉学に拍車をかけるものはない」
「必要に迫られて、
私はどんな言語でもその習得を著しく容易にする
方法を編み出したのである。
その方法は簡単なもので、
まず次のようなことをするのだ。
大きな声でたくさん音読すること、
ちょっとした翻訳をすること、
毎日一回は授業を受けること、
興味のある対象について常に作文を書くこと、
そしてそれを先生の指導で訂正すること、
前の日に直した文章を暗記して、
次回の授業で暗誦すること、である」
どんな時間でも活用しました。
郵便局での待ち時間はもちろん、歩きながらも、英語の本を読み、
階段につまずいたり、川に落ちそうになったこともしばしば。
人にぶつかって、どなられたり、殴られたりすることもありました。
しかし、彼は屈しませんでした。
雨の日も、同じように本を持って歩き続ける。
夜は、起きている時間はすべて、暗記した文章の反復練習に使いました。
まさに、時間を盗むようにして、必死に学んだのです。
その努力の結果はめざましく、
半年間で、英語の基本知識をすっかり身につけました。
次に彼は、フランス語に挑戦。
これも同じ方法で、半年間でマスターしてしまいます。
記憶力は、次第に研ぎ澄まされ、
オランダ語、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語
の習得には6週間以上かからなかったといいます。
シュリーマンは、3年間で6ヵ国語を身につけたことを
会社の上司に告げ、自分を外国との取引に使ってほしいと申し出ました。
ところが、「ばかもの!! おまえなんかが6ヵ国語もマスターできるはずがない。
ほらばかり吹きやがって」と言って、まったく相手にしてくれなかったのです。
しかし、彼はあきらめません。
目の前の人間が、認めてくれなくても、自分の努力が無になったわけではない。
この会社と縁がないだけだ。
大きな夢に向かって、彼は、転職先を探し始め、
その後、、幼い頃の夢を、40数年の時を経て見事に果たすのでした。
シュリーマンしかり。。
目的の大きさに比例して、努力精進しなければならないのは因果の鉄則。
「蒔けば生え 蒔かねば生えぬ 善し悪しの 人は知らねど 種は正直」
仏縁に恵まれ、人間に生まれてきた正しい目的を知り、そこへ向って、
どんな苦難も乗り越え、明るくたくましく努力精進できる人は本当に幸せ者です(*^_^*)
ガンバ!!
【生きる目的を知ると、苦難を乗り越える力がわいてくる】
落ち葉舞う秋(^_^)
小3の息子が、「将来、漫画家になる」
と見せてきた数枚のマンガ絵。
意味不明のところも多くありましたが、、
案外まとまっている物語にびっくり(^_^;)
そういえば自分も同じように思っていた頃
があったなぁ、、と思い出されました(^_^;)
秋空のように変わりやすいのが人の心ですが、、
人生かけて悔いなし、の生涯を送ってほしいものです。
「少年時代の夢を、生涯かけて達成した人」といえば、
ドイツの貧しい家に生まれた、シュリーマン。
彼の夢は、地中に埋まっている
古代ギリシャの遺跡・トロイの発掘でした。
しかし、それは誰が考えても不可能なこと。
トロイは3000年も前の都市であり、
どこにあるのかもハッキリしていなかったからです。
たとえ場所が分かっても、
広大な城の発掘には莫大な経費がかかります。
それどころか、トロイは伝説上の城であり、
実在しなかったと見るのが、当時の常識でした。
シュリーマンは、どのようにして不可能を
可能にしていったのか。
数回に分けて紹介してゆきたいと思います。
まず、夢を持つこと。
彼が、トロイの発掘を決意したのは、わずか7歳の時。
歴史好きな父親から、
トロイとギリシャが10年間も戦った物語を聞かされ、
すっかり魅了されてしまいました。
両軍の英雄が激突した戦場、敗れて燃え盛るトロイ城。
「きっと、土の中に埋もれているに違いない。
必ず掘り出してみせる」
熱く燃えるシュリーマンに、
多くの苦難が襲いかかってきました。
まもなく母親が亡くなり、父親は仕事に失敗。
学校を中退せざるをえなくなったのです。
14歳で、小さな雑貨店に就職し、
朝5時から夜11時まで働く日々。
それでも「トロイ発掘」の夢は忘れませんでした。
まずは生きる為に働かなければ!
だが、過酷な重労働が続いたせいか、
5年後に、血を吐いて倒れてしまいました。
体が動かなくなれば、情け容赦なく解雇される。
世の中を、一人で生きていくのは、実に厳しいこと。
5年間、あれほど働いたのに、
蓄えはほとんどありませんでした。
日々の糧を得るために、
彼は、どんな仕事でもしましたが、喀血(かっけつ)
がひどく、長続きしなかったといいます。
ようやく、船員の仕事に就くも。。
彼を乗せた船が嵐に遭い、オランダ沖で難破。
かろうじて一命を取り留めたものの、
もう完全に無一文になってしまいました。
まさに、19歳までの人生は、不幸のどん底。
そんな彼に、生きる力を与え続けたのは、
「いつかは、あの輝く伝説の都トロイを発掘したい」
という夢であり、目標でした。
この夢がなかったら、
とっくに自殺していたかもしれません。
幸いにも、この窮状を救ってくれる人が現れました。
亡くなった母の友人が、就職口を世話してくれたのです。
仕事は、アムステルダム(オランダの首都)の商社で、
銀行や郵便局への使い走りなどをする雑用係。
深く感謝した彼は、
このチャンスを最大限に生かし飛躍すのでした(^_^)
続きは次回!
生きる目的がハッキリすれば、
勉強も仕事も健康管理もこのためだ、
とすべての行為が意味を持ち、
心から充実した人生になります。
病気がつらくても、
人間関係に落ち込んでも、
競争に敗れても、
「大目的を果たすため、乗り越えなければ!」
と“生きる力”が湧いてくるのです。
「人身受け難し今已に受く」(釈迦)
これは、「生まれ難い人間に生まれることが出来て
よかったという喜び」であり、
「よくぞ人間に生まれたものぞ、の生命の大歓喜」
を言われたお言葉です。
どんなに苦しくとも生きねばならない理由、
本当の人生の目的が仏教に説き明かされ、
どんな人も達成できることを、
これからも全力で伝えてゆきます(^_^)
米沢藩主の上杉鷹山を通しての話は一応、
今回を最後にしたいと思います。
これで8回目(^_^)
毎月通っている好きな町、山形県米沢市の偉人
ということもあり、ついつい長くなってしまいました(^_^;)
一人の人物について、こんなに多く紹介をしたのは
これが初めて。
他にもまだエピソードがあるので、機会があればまた紹介します。
恩人を大切にした鷹山は、
領内の村々に、次のような通達を出しています。
「年老いた者には、気を遣い、
力を尽くして大切に接するべきである。
70歳以上の者には、村の者が、皆で協力して、
よくいたわるようにせよ。
90歳以上の者には、また格別の心遣いをせよ」
言うだけではなく、自ら実践しました。
鷹山が、赤湯温泉へ向かった時、
(赤湯温泉:山形県南陽市にあります)
近くの村に95歳の老人が住んでいると聞いたので、
早速訪ねて労をねぎらい、祝い酒と扇子を贈ったこと
があったと言われます。
農民にとっては、驚きだったでしょう(>_<)
殿様が、敬老の精神で慰問に来るなど、
まさに「格別の心遣い」。
このような配慮を見たり、聞いたりするうちに、
親の恩を思い、年寄りを気遣うことの大切さが、
少しずつ浸透していきました。
「老人」といっても、最初から年寄りだったわけではありません。
「子供笑うな来た道じゃ。年寄り笑うな行く道じゃ」
といわれるように、自分の未来の姿でもあるのです。
親に育ててもらった恩を忘れ、会話もなく、冷たく接していたならば、
自分が年老いた時に、同じ報いを受けても文句は言えません。
仏教では、これを「因果応報」と言われます。
やった行為(因)に応じた、運命(果)の報いを受ける。
経済的に厳しい時に、心まで貧しくなったのでは、
やること、なすこと、暗いほうへばかり傾いてしまいます。
鷹山は、目前の損得にとらわれず、
まず、人間としてのまっすぐな生き方を示しました。
そこには後ろめたさがないから、心が明るく、豊かになり、
自信を持って進むことができたのです。
深刻な財政危機を乗り越えた原動力は、ここにあったのですね(^_^)
「成せば成る 成さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 成さぬなりけり」
鷹山の名言です。
まさに、この言葉どおり、改革に着手してから
33年めにして、借金のほとんどを返済し、
更に、荒廃していた米沢は、美しい農業国家に生まれ変わりました。
私心なき、まっすぐな姿勢が、家臣や領民の信用を得、
不可能と思われた改革を成功させたのでしょう。
上杉鷹山は、次のような戒めを後継者に与えています。
「国家は子孫に伝えるものであって、
私にしてはならない。
人民は国家に属する人民であって、
私にしてはならない」
知識ゼロの方にも仏教を知って頂けるよう、
私も、分かり易い講座、勉強会に努め、
まっすぐに頑張ります!
「少子高齢化」から、今は「少子多死化」が進んでいるとニュースになっていました(^_^;)
すべての人の行く先が「老」「病」「死」。
今回は、米沢(山形県)の藩主だった、上杉鷹山のお年寄りに対する政策について。
家は貧乏なのに働くこともできず、
食糧を食いつぶすだけの厄介者が老人なのか。
生きていて、何の意味があるのか。
こういう発想から、江戸時代には「姥捨山」の風習が生まれた地域さえありました。
(姥捨山:国の掟や貧困のため、年老いた親を子が捨てた山のこと。日本各地に伝説が残っています。)
しかし、上杉鷹山は反対でした。
どんなに経済的に厳しくとも、老人を大切にする政策を打ち出してたのです。
安永6年(1777年)、鷹山は、藩士の家族の中で、
90歳以上の老人を城を招いて懇親会を設けました。
老人は、今こそ腰が曲がり、歩くこともままならず、
家族に迷惑をかけているかもしれない。
だが、この親がなければ、子供が育たなかったのです。
孫も生まれていません。
いかなる貧苦にも耐えて、働いてきてくれたからこそ、
現在の家庭もあり、国家も築かれてきたのです。
その恩を思うと、ねぎらわずにおれない。
鷹山は、優しく言葉をかけ、服や金子(きんす)を贈りました。
また広間で行われた会食の席には、子や孫を2、3人ずつ付き添わせました。
付き添いの家族に、鷹山は、
「今日は無礼講だ。
おまえたちの両親や祖父母をいたわり、
心を込めて食事の世話をして、
楽しく過ごしなさい」
と言ったので、仲むつまじい笑い声が絶えませんでした。
この宴(えん)に参加した人や、後で伝え聞いた人々は、
皆、今までの行いを反省し、
「もっと年寄りを大事にし、親の恩に報いるように心掛けていこう」
と強く知らされたといいます。
鷹山は、町民、農民に対しても、同じように接しました。
90歳以上の老人を代官所へ招いて「養老米」を贈り会食もしています。
以後、毎年元日に、90歳以上の老人には、
服や米が、祝いとして贈られることになったのです。
「親捨てた 報いで子にも 捨てられる」
親を邪魔者にしてきたから、子供から自分も邪魔者にされるのです。
仏教では、
ご恩をありがたく感謝する者は成功し、
恩を当然と受け流す者は信用を失い、
恩を仇で返す者は身を滅ぼす、と教えられています。
心してゆきたいと思います(^_^)
急に寒くなってきました(^_^;)
テレビで、「温カツ」なる言葉を知りました。。
如何に体を温めるか、、
ということのようですが、、
くれぐれも風邪を引かないよう気をつけて下さいね。
今回も、山形県の米沢藩主、上杉鷹山について紹介します(^_^)
「素晴らしい松の盆栽が、格安で売り出されております」
医者の易庵(えきあん:米沢藩の藩医)が、
米沢城下で得た耳寄りな話を、鷹山に報告しました。
鷹山は、盆栽が好きなので喜んだが、どうも、深い事情のある逸品らしい。
易庵は、次のように語りました。
「実は、その盆栽の持ち主は、孝行な男なのです。
母親が、長い間、病気で寝込んでおりまして、
息子は一人で、看病を続けてきました。
その姿は、端から見ておりましても、
りっぱだと思っておりました。
ところが貧しい家なので、
次第に母親の薬代が払えなくなってきたのです。
息子は、看病の合間に働き、自分の食事も切り詰めて、
何とか薬だけは買い続けています。
それがもう限界に来ましたので、
父祖の代から、この家の宝として秘蔵されてきた
松の盆栽を売り出すことにしたのです。
実に枝振りのいい松です。
ところが、いろいろと厳しい今日、
誰も希望する金額では買ってくれませんでした。
そこで、息子は、何としても薬代が欲しいので、
今度は半額にして売り出したというのです。」
聞き終えた鷹山は、こう言ったといわれます。
「母親の薬代のために、父祖の代から大切にしている
盆栽を手放すと聞いてしまうと、
とても眺めて楽しむ心境にはなれない。
しかしながら、その孝行息子が不憫でならない。
何とか力になってやりたいが、
何の縁もない者ゆえ、どうしようもない。
そこで、最初につけた金額で私が盆栽を購入し、
盆栽そのものは、その息子に末永く貸し与えることにしよう。
易庵よ、代金を今すぐに渡すから、
一日も早く母親の薬を購入し、
心から看病を続けるように伝えてくれ」
ほっこりするエピソードですね。。
こんな話を聞くのも「温カツ」に含めていいのでは(^_^;)
鷹山は、日ごろから、親には大恩があるのだと公言し、
領内に孝行者がいると、その行いを褒めたたえていました。
藩主であった19年間に、
孝行で褒賞を受けた者は、85人以上といわれいます。
私は、これを「恩カツ」と呼びたい(*^_^*)
2600年前、ブッダは
『父母の恩重きこと、天の極まりなきがごとし』
と説かれました。
知恩(恩を知り)、感恩(恩を感じ)、報恩(恩に報いる)
の心が強い人ほど、素晴らしい人、幸せな人なのだ、
と仏教では教えられています。
この世で最も不幸な人は感謝の心のない人です。
忘恩(恩を忘れ)、背恩(恩に背き)、逆恩(恩を仇で返す)
の輩の末路は、哀れ極まりがありません。
言うは易く、行うは難し、ですが、、
共に、少しでも恩を知る努力、恩を感ずる努力、恩に報いる努力
をしてゆきましょう(^_^)
「恩カツ」!
地震、噴火、台風、などなど天災のニュースが続きますが、、
先祖のたたり、神の怒り、印相や手相が悪い、日が悪いから、
と原因が分からないものには言いたい放題です。
誤ったものの考えからは誤った生き方しか生まれません。
気をつけなければ(^_^;)
上杉鷹山が、迷信を排斥したエピソードを、
もう1つ紹介します(^_^)
ある村に、双子の女の子が生まれました。
昔から、同性の双子が育つと両親へたたりをもたらすと
信じられており、どちらか一人を殺すという恐ろしい風習がありました。
両親は、この言い伝えに従おうとしましたが、
赤ん坊の笑顔を見ると、かわいそうで、なかなか実行できません。
そのうち、このことが鷹山の耳に入ったのです。
迷信で人の命を奪うとは、もってのほか。
たとえ農民であろうと、命の重さに変わりはない。
救わねば!
鷹山は、すかさず、
「双子が生まれたか。
それはめでたい。祝儀を取らせよう」
と言って、酒と肴(さかな)を贈りました。
双子の両親はびっくり。
殿様から祝いが届くとは、前代未聞の出来事でした。
「殿様が、こんなに喜んでくださるのだ。
気にせずに、大事に育てよう」
元気を取り戻した両親は、親戚や近所の人々を招き、
拝領の酒で、盛大に誕生祝いを行ったのです。
双子の赤ちゃんは、無事に成長して、孝行な姉妹となりました。
出生時に、鷹山に命を救われたことを知った二人は、
何か、恩返しをしたいと思うようになりました。
そこで、自分たちの手で綿と紅花を栽培し、
真心込めて、紅染めの木綿布団をこしらえて、
城へ届けたのでした。
鷹山は、その志を大変喜び、
姉妹から贈られた布団を、終生、大切に用いたと言われます。
心温まる話ですね(^_^)
きれいな線を引く為には、
真っ直ぐな定規を使わねばならないように、
明るく生きる為には、
生きる支柱となる真っ直ぐな定規が必要。
それこそ、ブッダの説いた、因果の道理です。
蒔かぬ種は絶対に生えませんが、蒔いた種は必ず生える。
「自業自得」はよく知られている仏教の言葉。
私の行いの善し悪しが、私が得る運命の幸、不幸を生み出す。
私の運命のすべては、私のやった行為が生み出したものであり、
それには万に一つも例外はないのだよ、
と教えられるのが仏教です。
善因善果
悪因悪果
自因自果
これが因果の道理の三本柱。
正しくこの道理を知り、すべての人に、
幸せになって頂けるよう、私も生涯、頑張ります!
昨日は、皆既月食を見損ねました。。
カーナビがありながら道に迷い、、
うろちょろしていて、、気付いたときにはアウト(-_-;)
ぼやぼやしておれなかった(^_^;)
今回も、山形県米沢の偉人、上杉鷹山について紹介します。
鷹山は、迷信の撤廃にも積極的でした。
長年の習慣であっても、因果関係が成立しないものは、
一笑に付して捨て去っています。
中でも「厄年祝い」を廃止した理由を、次のように書き残しました。
「男は15・25・42・62歳、
女は13・19・33歳。
これを俗に『厄年』と称し、
必ず苦しみや災いが起きるという。
だから、厄年を迎えたら
『祈祷して害を除かなければならない』とか、
『親戚や友人が集まって祝えば凶が吉に転じる』
などと言っている。
しかし、これらは何の根拠もないデタラメである。
厄年であろうと、なかろうと、
人間は、いつ病にかかったり、死んだりするか分からない。
『年』そのものに、吉凶など、あるはずがないではないか。
善を行えば幸福に恵まれ、悪を行えば災いが起きる、
これは道理である。
悪を犯したり、人に危害を加えたりした者は、
どれだけ祈っても、悪果を免れられるはずがない。
また善に励み、人のために尽くしている者ならば、
祈らなくても幸せを得ることができるはずだ。
これは、極めて明らかなことである。
私は来年、25歳の厄年を迎える。
まず私が率先して、この悪弊(あくへい)を撤廃しよう。
国じゅうの、該当者の祈祷料などの総額は
莫大な金額になるはずだ。
この無駄遣いは、何としても防がねばならない」
科学が発達した今日でさえ、厄年を気にしている人がいるのに、
江戸時代の米沢に、これほどハッキリ断言し、
迷信に左右されない生き方を貫く人物がいたとは、驚きです。
2600年前に、ブッダは言われています。
「一切法(万物)は因縁生なり」(大乗入楞伽経)
すべてのものは、因(直接的原因)と
縁(間接的要因)の和合によって結果が現れるのだよ。
これを、因果の道理と言います。
道理に合わない迷信がこの世には如何に多いことか。
一度きりの人生。
道に迷い、うろちょろして、
おかしな迷信にだまされ、
臨終に後悔のため息、、では大変。
ぼやぼやしておれません。
ブッダの智恵を学び、真っ直ぐに、私らしく、
たくましく生きてゆきたいと思います。
10月に入りました(*^_^*)
日中は、強い日差しに汗ばみ、
朝晩は、肌寒く布団にくるまる。。(^_^;)
みなさん、体調にはくれぐれもお気をつけください。
今回も、上杉鷹山について(^_^)
節約の次は、収入を増やす積極策が必要と、ある日、
鷹山は学問の師・細井平洲(へいしゅう)に尋ねました。
(細井平洲:江戸時代の儒学者)
「わが藩が貧しいのは、荒れ地が多いからです。
これを、打開する方法はないものでしょうか」
「荒れ地が多いのが原因とお気づきならば、
答えはハッキリしています。
一日も早く、開墾に取りかかるべきです」
鷹山は、まゆをしかめて、つぶやきます。
「そのことなのです、悩みは。。。
開墾を奨励するには多額の経費がかかります。
その当てがないから困っているのです」
平洲は微笑を浮かべて答えました。
「それは、さほど難しいことではありません。
ただ、殿様のご決心一つにかかっています」
しばらく考えたていた鷹山、、やがて明るい表情になり、
「うむ、分かった。すぐに決行しよう」
と言って、鍬(くわ)を四十挺(ちょう)ほど作らせ、
それを近臣に分け与え、城を出て行きました。
着いた場所は、草ぼうぼうの荒れ地。
早速、鷹山が先頭に立ち、鍬を持って耕し始めたのです。
この常識を打ち破る行為は、たちまち国じゅうの大評判となりました。
最も驚いたのは農民たち。
「殿様自ら、この国のために鍬を持って働いておられる。
我々が休んでいるわけにはいかない」
と、積極的に開墾に乗り出すのでした。
武士の意識も変わりました。
プライドを掲げていても、藩がつぶれたら意味がありません。
まして主君が先陣をきって努力しているのです。
皆が一体となって草を刈り、土地を耕し、農業の発展に尽くすようになりました。
同時に、養蚕や織物などの特産物にも力を入れたので、
藩の財政は少しずつ好転していきました。
「率先垂範」という言葉があります。
「先に立って模範を示す」ことですが、如何に大切なことか。
言うは易く、行うは難しではありますが、、
姿にかけた法が説けるよう、
因果の道理を信じ、
私も精一杯、光に向って頑張ります!!
米沢の上杉鷹山について、数回にわたって紹介しています。
舞台は、いつも大変お世話になっている、「山形県米沢」(^_^)
上杉謙信ゆかりの名門「上杉家」は、家康によって米沢へ移されました。
かつての栄光も次第に薄らぎ、米沢藩は、江戸時代中期には、
破産寸前に追い込まれていきました。
この危機を救ったのが、17歳で藩主になった上杉鷹山(10代米沢藩主)です。
なぜ、米沢藩が、莫大な負債を抱えるようになったのか。
年間の支出が、収入の2倍以上もあり、
足りなくなったら安易に借金を繰り返してきたから、と言われます。
ではなぜ、支出を抑えられなかったのか。
大名としての格式にこだわり、藩主や家臣が、見栄や惰性で、
昔のままの生活を続けてきたのが原因でした。
現在は、過去と未来を解く鍵である。
このままいけば、藩の財政が破綻するのは時間の問題。
今、何をなすべきなのか。
鷹山は、まず、自身が経費節減の手本を示しました。
藩主の生活費を、これまでの7分の1に抑え、
食事は一汁一菜、衣服も高価な絹を使わず、
すべて粗末な木綿で作らせました。
そのうえで、家臣にも節約を命じたのです。
主君の日常を見ているので、
家臣たちも心から従うようになっていきました。
さらに、年中行事の中止、餞別(せんべつ)や祝い
などの贈答の禁止、慣例の見直しなど、
不要、不急の支出を大胆に削っていきました。
しかし、急な改革に反発し、
「これでは上杉家の体面が保てない。元に戻してもらいたい」
と一部の重臣が結束して抗議してきました。
体面を気にしてきたから、藩がつぶれようとしているのに、
まだ分かっていない。
鷹山は、少しもひるみませんでした。
非難が的外れであることを、一つ一つ証明していき、
改革にブレーキをかける者には、重臣といえども厳罰を与えたのです。
しかし、厳しいばかりではありません。
鷹山は、村の有力者に、次のように語っています。
「百姓は、日に焼け、泥にまみれて田畑を耕し、
世の宝を生産している。
その苦労は大変なものだろう。
せめて一年のうち何日か、
みんなが集まって酒を飲み、遊ぶことまでは禁止しない。
人間は、いつも張り詰めた弓のようにしていては、
続かないものだ。
休日と決めた日は、思う存分、遊んでよろしい。
ただ、正直を守り、ぜいたくはやめ、
農業に精を出すことを忘れないでもらいたい」
率先垂範で努力し、皆の労を労い、共に、真面目に頑張ろうと
呼びかける姿勢に大変心を打たれます。
仏教の根幹は、因果の道理。
蒔かぬ種は生えぬ。蒔いた種は必ず生える。
現在の自己をみつめ、過去の行いを反省し、
明るい未来を創造する為、現在の努力を惜しまない。
これが、ブッダが説き続けられた因果の道理です。
「汝ら、過去の因を知らんと欲すれば現在の果を見よ。
未来の果を知らんと欲すれば現在の因を見よ。」(因果経)
今、福島県米沢市にいます(*^_^*)
月に2,3回は、この町でも勉強会をしているのですが、
綺麗な町並みと人柄の良さに、いつも癒され、
元気をもらっています(^_^)
そんな米沢の偉人と言えば、
「成せば成る 成さねば成らぬ 何事も
成らぬは人の 成さぬなりけり」
の格言が有名な、上杉鷹山(ようざん:10代米沢藩主)。
この精神を、破産寸前の米沢藩の再建に、遺憾なく発揮しました。
15歳で藩主になった鷹山は、まず“当たり前”のことを着実に実践。
つまり、「収入に見合った支出に心掛けよ」と徹底したのです。
借金があるのに贅沢はできません。
食事は「一汁一菜」、衣は高級な絹をやめて木綿にするよう命じました。
経費節減のために、次々と先例を破る改革を断行。
格式にこだわり、華美な生活に慣れた上級家臣たちからは
猛反発を浴びましたが、「このままでは国が滅びる」と、
誠心誠意、家臣に説き、藩主自ら実践したので、節約の習慣は、
次第に藩士一人一人にまで浸透して行きました。
同時に、新しい産業を起こして収入増加に努め、
鷹山が亡くなるまでの55年間で、
藩財政は見違えるほどに好転しました。
その遺風は明治まで続いたといいます。
アメリカのケネディ大統領が来日した際、
日本で最も尊敬する政治家に鷹山を挙げたと言われるのも、
不可能を可能にする精神に感激したからでしょう。
そんな鷹山が、結婚する孫娘に、祝いの品と一緒に、
次のような手紙を送っています。
「父母の恩は、山よりも高く、海よりも深いものです。
この恩徳に報いることは到底できませんが、
せめてその万分の一だけでもと、
心の及ぶだけ、力の届くだけを尽くし、
努めることを孝行というのです。
その方法にはいろいろありますが、
結局は、この世に生んでくださったご恩を
常に忘れず、父母をいたわり、
大切にしようとする心が、最も重要なのです。
誠心誠意、この心掛けで接するならば、
多少の行き違いや落ち度があっても、
必ず心が通じるものです」
両親に対して、どのように接すべきかを、優しく諭しています。
藩政改革同様、「当たり前のことを忘れてはいけませんよ」
と戒めているのでしょう。
正に、因果の道理を説き、恩を知り、出来る善から始めなさい、
と徹底して善を勧めたブッダの教えを実践している姿勢に心を
打たれます。
この後、数回にわたって、
鷹山について紹介してみたいと思います(^_^)
見習ってガンバ!