2014年10月

【「子供笑うな来た道じゃ。年寄り笑うな行く道じゃ」】

米沢藩主の上杉鷹山を通しての話は一応、
今回を最後にしたいと思います。

これで8回目(^_^)

毎月通っている好きな町、山形県米沢市の偉人
ということもあり、ついつい長くなってしまいました(^_^;)

一人の人物について、こんなに多く紹介をしたのは
これが初めて。

他にもまだエピソードがあるので、機会があればまた紹介します。

恩人を大切にした鷹山は、
領内の村々に、次のような通達を出しています。

「年老いた者には、気を遣い、
 力を尽くして大切に接するべきである。
 70歳以上の者には、村の者が、皆で協力して、
 よくいたわるようにせよ。
 90歳以上の者には、また格別の心遣いをせよ」

言うだけではなく、自ら実践しました。

鷹山が、赤湯温泉へ向かった時、
(赤湯温泉:山形県南陽市にあります)
近くの村に95歳の老人が住んでいると聞いたので、
早速訪ねて労をねぎらい、祝い酒と扇子を贈ったこと
があったと言われます。

農民にとっては、驚きだったでしょう(>_<)

殿様が、敬老の精神で慰問に来るなど、
まさに「格別の心遣い」。

このような配慮を見たり、聞いたりするうちに、
親の恩を思い、年寄りを気遣うことの大切さが、
少しずつ浸透していきました。

「老人」といっても、最初から年寄りだったわけではありません。

「子供笑うな来た道じゃ。年寄り笑うな行く道じゃ」

といわれるように、自分の未来の姿でもあるのです。

親に育ててもらった恩を忘れ、会話もなく、冷たく接していたならば、

自分が年老いた時に、同じ報いを受けても文句は言えません。

仏教では、これを「因果応報」と言われます。

やった行為(因)に応じた、運命(果)の報いを受ける。

経済的に厳しい時に、心まで貧しくなったのでは、
やること、なすこと、暗いほうへばかり傾いてしまいます。

鷹山は、目前の損得にとらわれず、
まず、人間としてのまっすぐな生き方を示しました。

そこには後ろめたさがないから、心が明るく、豊かになり、
自信を持って進むことができたのです。

深刻な財政危機を乗り越えた原動力は、ここにあったのですね(^_^)

「成せば成る 成さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 成さぬなりけり」

鷹山の名言です。

まさに、この言葉どおり、改革に着手してから
33年めにして、借金のほとんどを返済し、
更に、荒廃していた米沢は、美しい農業国家に生まれ変わりました。

私心なき、まっすぐな姿勢が、家臣や領民の信用を得、
不可能と思われた改革を成功させたのでしょう。

上杉鷹山は、次のような戒めを後継者に与えています。

「国家は子孫に伝えるものであって、
 私にしてはならない。

 人民は国家に属する人民であって、
 私にしてはならない」

知識ゼロの方にも仏教を知って頂けるよう、
私も、分かり易い講座、勉強会に努め、
まっすぐに頑張ります!
 

【「親捨てた 報いで子にも 捨てられる」】

「少子高齢化」から、今は「少子多死化」が進んでいるとニュースになっていました(^_^;)

すべての人の行く先が「老」「病」「死」。

今回は、米沢(山形県)の藩主だった、上杉鷹山のお年寄りに対する政策について。

家は貧乏なのに働くこともできず、
食糧を食いつぶすだけの厄介者が老人なのか。
生きていて、何の意味があるのか。

こういう発想から、江戸時代には「姥捨山」の風習が生まれた地域さえありました。
(姥捨山:国の掟や貧困のため、年老いた親を子が捨てた山のこと。日本各地に伝説が残っています。)

しかし、上杉鷹山は反対でした。

どんなに経済的に厳しくとも、老人を大切にする政策を打ち出してたのです。

安永6年(1777年)、鷹山は、藩士の家族の中で、
90歳以上の老人を城を招いて懇親会を設けました。

老人は、今こそ腰が曲がり、歩くこともままならず、
家族に迷惑をかけているかもしれない。

だが、この親がなければ、子供が育たなかったのです。

孫も生まれていません。

いかなる貧苦にも耐えて、働いてきてくれたからこそ、
現在の家庭もあり、国家も築かれてきたのです。

その恩を思うと、ねぎらわずにおれない。

鷹山は、優しく言葉をかけ、服や金子(きんす)を贈りました。

また広間で行われた会食の席には、子や孫を2、3人ずつ付き添わせました。

付き添いの家族に、鷹山は、

「今日は無礼講だ。
 おまえたちの両親や祖父母をいたわり、
 心を込めて食事の世話をして、
 楽しく過ごしなさい」

と言ったので、仲むつまじい笑い声が絶えませんでした。

この宴(えん)に参加した人や、後で伝え聞いた人々は、
皆、今までの行いを反省し、

「もっと年寄りを大事にし、親の恩に報いるように心掛けていこう」

と強く知らされたといいます。

鷹山は、町民、農民に対しても、同じように接しました。

90歳以上の老人を代官所へ招いて「養老米」を贈り会食もしています。

以後、毎年元日に、90歳以上の老人には、
服や米が、祝いとして贈られることになったのです。

「親捨てた 報いで子にも 捨てられる」

親を邪魔者にしてきたから、子供から自分も邪魔者にされるのです。

仏教では、
ご恩をありがたく感謝する者は成功し、
恩を当然と受け流す者は信用を失い、
恩を仇で返す者は身を滅ぼす、と教えられています。

心してゆきたいと思います(^_^)
 

【「父母の恩重きこと、天の極まりなきが如し」】

急に寒くなってきました(^_^;)

テレビで、「温カツ」なる言葉を知りました。。

如何に体を温めるか、、
ということのようですが、、
くれぐれも風邪を引かないよう気をつけて下さいね。

今回も、山形県の米沢藩主、上杉鷹山について紹介します(^_^)

「素晴らしい松の盆栽が、格安で売り出されております」

医者の易庵(えきあん:米沢藩の藩医)が、
米沢城下で得た耳寄りな話を、鷹山に報告しました。

鷹山は、盆栽が好きなので喜んだが、どうも、深い事情のある逸品らしい。

易庵は、次のように語りました。

「実は、その盆栽の持ち主は、孝行な男なのです。
 母親が、長い間、病気で寝込んでおりまして、
 息子は一人で、看病を続けてきました。
 その姿は、端から見ておりましても、
 りっぱだと思っておりました。
 ところが貧しい家なので、
 次第に母親の薬代が払えなくなってきたのです。
 息子は、看病の合間に働き、自分の食事も切り詰めて、
 何とか薬だけは買い続けています。
 それがもう限界に来ましたので、
 父祖の代から、この家の宝として秘蔵されてきた
 松の盆栽を売り出すことにしたのです。
 実に枝振りのいい松です。
 ところが、いろいろと厳しい今日、
 誰も希望する金額では買ってくれませんでした。
 そこで、息子は、何としても薬代が欲しいので、
 今度は半額にして売り出したというのです。」

聞き終えた鷹山は、こう言ったといわれます。

「母親の薬代のために、父祖の代から大切にしている
 盆栽を手放すと聞いてしまうと、
 とても眺めて楽しむ心境にはなれない。
 しかしながら、その孝行息子が不憫でならない。
 何とか力になってやりたいが、
 何の縁もない者ゆえ、どうしようもない。
 そこで、最初につけた金額で私が盆栽を購入し、
 盆栽そのものは、その息子に末永く貸し与えることにしよう。
 易庵よ、代金を今すぐに渡すから、
 一日も早く母親の薬を購入し、
 心から看病を続けるように伝えてくれ」

ほっこりするエピソードですね。。
こんな話を聞くのも「温カツ」に含めていいのでは(^_^;)

鷹山は、日ごろから、親には大恩があるのだと公言し、
領内に孝行者がいると、その行いを褒めたたえていました。

藩主であった19年間に、
孝行で褒賞を受けた者は、85人以上といわれいます。

私は、これを「恩カツ」と呼びたい(*^_^*)

2600年前、ブッダは
『父母の恩重きこと、天の極まりなきがごとし』
と説かれました。

知恩(恩を知り)、感恩(恩を感じ)、報恩(恩に報いる)
の心が強い人ほど、素晴らしい人、幸せな人なのだ、
と仏教では教えられています。

この世で最も不幸な人は感謝の心のない人です。

忘恩(恩を忘れ)、背恩(恩に背き)、逆恩(恩を仇で返す)
の輩の末路は、哀れ極まりがありません。

言うは易く、行うは難し、ですが、、
共に、少しでも恩を知る努力、恩を感ずる努力、恩に報いる努力
をしてゆきましょう(^_^)

「恩カツ」!
 

【「真っ直ぐな定規」】

地震、噴火、台風、などなど天災のニュースが続きますが、、
先祖のたたり、の怒り、印相や手相が悪い、日が悪いから、
と原因が分からないものには言いたい放題です。

誤ったものの考えからは誤った生き方しか生まれません。

気をつけなければ(^_^;)

上杉鷹山が、迷信を排斥したエピソードを、
もう1つ紹介します(^_^)

ある村に、双子の女の子が生まれました。

昔から、同性の双子が育つと両親へたたりをもたらすと
信じられており、どちらか一人を殺すという恐ろしい風習がありました。

両親は、この言い伝えに従おうとしましたが、
赤ん坊の笑顔を見ると、かわいそうで、なかなか実行できません。

そのうち、このことが鷹山の耳に入ったのです。

迷信で人の命を奪うとは、もってのほか。

たとえ農民であろうと、命の重さに変わりはない。

救わねば!

鷹山は、すかさず、

「双子が生まれたか。
 それはめでたい。祝儀を取らせよう」

と言って、酒と肴(さかな)を贈りました。

双子の両親はびっくり。

殿様から祝いが届くとは、前代未聞の出来事でした。

「殿様が、こんなに喜んでくださるのだ。
 気にせずに、大事に育てよう」

元気を取り戻した両親は、親戚や近所の人々を招き、
拝領の酒で、盛大に誕生祝いを行ったのです。

双子の赤ちゃんは、無事に成長して、孝行な姉妹となりました。

出生時に、鷹山に命を救われたことを知った二人は、
何か、恩返しをしたいと思うようになりました。

そこで、自分たちの手で綿と紅花を栽培し、
真心込めて、紅染めの木綿布団をこしらえて、
城へ届けたのでした。

鷹山は、その志を大変喜び、
姉妹から贈られた布団を、終生、大切に用いたと言われます。

心温まる話ですね(^_^)

きれいな線を引く為には、
真っ直ぐな定規を使わねばならないように、
明るく生きる為には、
生きる支柱となる真っ直ぐな定規が必要。

それこそ、ブッダの説いた、因果の道理です。

蒔かぬ種は絶対に生えませんが、蒔いた種は必ず生える。

「自業自得」はよく知られている仏教の言葉。

私の行いの善し悪しが、私が得る運命の幸、不幸を生み出す。

私の運命のすべては、私のやった行為が生み出したものであり、
それには万に一つも例外はないのだよ、
と教えられるのが仏教です。

善因善果
悪因悪果
自因自果

これが因果の道理の三本柱。

正しくこの道理を知り、すべての人に、
幸せになって頂けるよう、私も生涯、頑張ります!
 

【「一切法は因縁生なり」】

昨日は、皆既月食を見損ねました。。

カーナビがありながら道に迷い、、
うろちょろしていて、、気付いたときにはアウト(-_-;)

ぼやぼやしておれなかった(^_^;)

今回も、山形県米沢の偉人、上杉鷹山について紹介します。

鷹山は、迷信の撤廃にも積極的でした。

長年の習慣であっても、因果関係が成立しないものは、
一笑に付して捨て去っています。

中でも「厄年祝い」を廃止した理由を、次のように書き残しました。

「男は15・25・42・62歳、
 女は13・19・33歳。

 これを俗に『厄年』と称し、
 必ず苦しみや災いが起きるという。

 だから、厄年を迎えたら
 『祈祷して害を除かなければならない』とか、
 『親戚や友人が集まって祝えば凶が吉に転じる』
 などと言っている。

 しかし、これらは何の根拠もないデタラメである。

 厄年であろうと、なかろうと、
 人間は、いつ病にかかったり、死んだりするか分からない。

 『年』そのものに、吉凶など、あるはずがないではないか。

 を行えば幸福に恵まれ、を行えば災いが起きる、
 これは道理である。

 悪を犯したり、人に危害を加えたりした者は、
 どれだけ祈っても、悪果を免れられるはずがない。

 また善に励み、人のために尽くしている者ならば、
 祈らなくても幸せを得ることができるはずだ。

 これは、極めて明らかなことである。

 私は来年、25歳の厄年を迎える。

 まず私が率先して、この悪弊(あくへい)を撤廃しよう。

 国じゅうの、該当者の祈祷料などの総額は
 莫大な金額になるはずだ。

 この無駄遣いは、何としても防がねばならない」

科学が発達した今日でさえ、厄年を気にしている人がいるのに、
江戸時代の米沢に、これほどハッキリ断言し、
迷信に左右されない生き方を貫く人物がいたとは、驚きです。

2600年前に、ブッダは言われています。

「一切法(万物)は因縁生なり」(大乗入楞伽経)

すべてのものは、因(直接的原因)と
縁(間接的要因)の和合によって結果が現れるのだよ。

これを、因果の道理と言います。

道理に合わない迷信がこの世には如何に多いことか。

一度きりの人生。

道に迷い、うろちょろして、
おかしな迷信にだまされ、
臨終に後悔のため息、、では大変。

ぼやぼやしておれません。

ブッダの智恵を学び、真っ直ぐに、私らしく、
たくましく生きてゆきたいと思います。
 

【「率先垂範」】

10月に入りました(*^_^*)

日中は、強い日差しに汗ばみ、
朝晩は、肌寒く布団にくるまる。。(^_^;)

みなさん、体調にはくれぐれもお気をつけください。

今回も、上杉鷹山について(^_^)

節約の次は、収入を増やす積極策が必要と、ある日、
鷹山は学問の師・細井平洲(へいしゅう)に尋ねました。
(細井平洲:江戸時代の儒学者)

「わが藩が貧しいのは、荒れ地が多いからです。
 これを、打開する方法はないものでしょうか」

「荒れ地が多いのが原因とお気づきならば、
 答えはハッキリしています。
 一日も早く、開墾に取りかかるべきです」

鷹山は、まゆをしかめて、つぶやきます。

「そのことなのです、悩みは。。。
 開墾を奨励するには多額の経費がかかります。
 その当てがないから困っているのです」

平洲は微笑を浮かべて答えました。

「それは、さほど難しいことではありません。
 ただ、殿様のご決心一つにかかっています」

しばらく考えたていた鷹山、、やがて明るい表情になり、
「うむ、分かった。すぐに決行しよう」

と言って、鍬(くわ)を四十挺(ちょう)ほど作らせ、
それを近臣に分け与え、城を出て行きました。

着いた場所は、草ぼうぼうの荒れ地。

早速、鷹山が先頭に立ち、鍬を持って耕し始めたのです。

この常識を打ち破る行為は、たちまち国じゅうの大評判となりました。

最も驚いたのは農民たち。

「殿様自ら、この国のために鍬を持って働いておられる。
 我々が休んでいるわけにはいかない」

と、積極的に開墾に乗り出すのでした。

武士の意識も変わりました。

プライドを掲げていても、藩がつぶれたら意味がありません。

まして主君が先陣をきって努力しているのです。

皆が一体となって草を刈り、土地を耕し、農業の発展に尽くすようになりました。

同時に、養蚕や織物などの特産物にも力を入れたので、
藩の財政は少しずつ好転していきました。

「率先垂範」という言葉があります。
「先に立って模範を示す」ことですが、如何に大切なことか。

言うは易く、行うは難しではありますが、、
姿にかけた法が説けるよう、
因果の道理を信じ、
私も精一杯、光に向って頑張ります!!
 
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